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俺は、中津川駿也。
今は、妻も子も居て、技術系の仕事をしている何の変哲もない一介のサラリーマンだが、学生時代に少し変わった体験をしたことがある。
体験というよりは、「暮らし」とか「生活」と言った方がよいかもしれないのだが、まあともかく、今まで誰にも話したことのない学生時代の経験を、思い出すままに、語ってみようと思う。
舞台は下宿屋だ。その下宿屋は、俺の通っていた学校からさほど遠くないところに在った。電車の駅で二つ目の所と言っておけば感じがつかめるかな。
俺は当時、理工学部に入学することになっていて、下宿屋を探していた。
大学は割りと歴史のある学校で、みんな名前くらいは知っているんだが、実は、補欠入学で、下宿を探すタイミングがかなり遅くなっていた。
親は、「都会の一人暮らしは、生活が乱れる。せめて食事くらいは、ちゃんとするよう、賄い付きの下宿に住め」と言っていた。
まあ、金を出すのは親だから、脛っかじりの身としては、強行に反対することもできなかった。
当時でも賄い付きの下宿は少なく、まして三月下旬もになって探していたので、なかなか良い所がなかった。
十件近く不動産屋を回ったところで、「まだ幾部屋も空きのある下宿屋がある」と言われた。
「今時までガラ空きの所って、何かあるんじゃないんですか?」。
そろそろ親も諦めて普通のアパートを捜そうと揺らぎかけていたところなんで、俺は不動産屋のオヤジに、そう訊いたんだ。
「大家さんは、熊田さんていうんだが、実は熊田さんところは、不幸が続いててねー。先代の大家さんが亡くなったばかりなんですよ。元は、その奥さんが女手一人で、切り盛りしてたんですがね、その少し前に離縁して戻って来ていた娘さんに代替わりして、ウチに依頼してきたのが随分と遅かったんですよ。でも、先代の奥さんも変な亡くなり方をしたわけじゃないし、新しくはないが洋風の作りでなかなか洒落てる建屋なんですよ」。
不動産屋の話で俺は、行ってみる気になったんだ。
別に「娘さん」って言葉に引かれたわけじゃない。亡くなった奥さんていうのは、どうせ婆さんだろうから、その娘って言っても四十過ぎがいいところだろうと思ったんだ。
それより「洋風」ってのに引かれた。ま、田舎から出て来ようって時だったから少しでも都会的な生活がしたかったのかもしれない。
その場に居た母親も、諦めかけてたときだけに、大喜びで現地を見に行ったんだ。
下宿屋は木造で、外観はそんなに厳めしく「洋館」って感じじゃなかった。
案内に出てきてくれた大家さんは、三十歳くらいの色白の人で、太い黒縁のメガネをかけていた。くるぶしの上までの長いスカートに、やはり長いカーディガンを羽織っていて、けっこう太目の体格に見えた。
色っぽい未亡人を期待して下宿先を探してたわけじゃないから、このときは、ひどいブスでないことに安心したくらいだった。
ただこの下見ときは、大家さんの意外な点をひとつだけ見つけていた。
案内された下宿の部屋は二階に在り、大家さんの住む一階の玄関とは別に、二階に上がるための専用の入口があった。
入口の外にタワシのようなマットがあり、中に入るとまた玄関マットがある。そのすぐ左に扉があったが、これは大家さんが外を回らずに出入りする扉だ。
ここには下駄箱などはなく、畳一枚くらいの廊下の先がそのまま階段に続いていて、土足のまま入るようになっていた。
先に立ち大家さんが階段を上がる。
俺はその後を付いて、やはり階段を上がっていくとき、意外な点に気づいたんだ。
大家さんの脚は、かなり色白で、足首が締まっていると言うか、ほっそりとしているんだ。長いスカートだったんで、ふくらはぎはほとんど見えなかったが、脚だけは意外に綺麗かもしれないと思った。
ついでに、下宿の様子を説明しておくことにしよう。
二階には、六畳間の四つの個室があり、ここだけは畳の部屋だった。
下宿人たちは、個室に入り半畳ほどのスペースで靴を脱いで、畳の間で生活する。
賄いの食事は、個室とは別に設けられた八畳ほどの食堂でするようになっていた。
食堂には、流しやコンロもあり一通りの調理はできるようになっていた。現に大家さんは、ここでも食事の支度をしていた。
トイレは共同で二つ有り、洋式。風呂は無く、代わりにやはり共用の小さなシャワールームだけがあった。ただし、珍しく銭湯が直ぐ近くにあり、そんなに不便な所ではなかった。
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